自ら仕入れて、自ら売る。
極めてシンプルで潔い世界です

字句通り、のけぞった。
国産とは思えない圧倒的オーラ。
山形の老舗ファクトリー、宮城興業のオリジナルは
5万円アンダーという抜群のコストパフォーマンスがダメを押して、
ここ数年で一番の収穫だった。
しかもその靴が並んでいるのはインポートシューズ一筋で来た
ワールド フットウェア ギャラリーなのである。

手前の2足は山形・南陽市にある宮城興業のオリジナル「ミヤギコウギョウ」。足なりのフォルム、ヴェヴェルドウエストなど手仕事が欠かせないスペックはいずれも高次元にある。とりわけコバの処理は秀逸だ。2点とも4万9350円/ワールド フットウェア ギャラリー神宮前本店TEL.03・3423・2021

アーティストのための靴がつくりたいとイタリアの「デュカル」にオファーした一足。日高はトーン記号のアイデアを出したのみ。結びやすさを考慮してカーブを描くサイドレースはじめ、具体的な落とし込みは「デュカル」の裁量による。まさに両者が面白がって生まれた一足。7万9800円/ワールド フットウェア ギャラリー神宮前本店TEL.03・3423・2021

日本の靴産業に見た
イタリアに通じる可能性

 コンビシューズ、あるいはサイドレース。クラシック回帰の中でおなじみになった靴種だが、これ、かなり早い段階で確信犯的に仕掛けたのが日高だったのをご存じだろうか。
「往年のデザインを復活させたいと思ってサージェントに声をかけたんです。クラシックには意味があって、後世に残していかなければならないと。90年代後半のことでした」
 イチからつくり上げればロットが問題になる。「次のシーズンからはヨソにも売るが、いいか」との条件を承諾、実現にこぎ着けた。程なく錚々たるビッグブランドが一連のシリーズにオーダーをつけた。  イギリスの老舗をその気にさせ、フォロワーをも生んだのはスルドイ目の付け所もさることながら、完成度の高さに尽きる。完成度が高いのは下請けではなく、パートナーという意識で接するからだ。日高は木型やパターンを持ち込んだりしない。思いは伝えるが、どうカタチにするかは任せる。現場のアイデアが反映できる余白を十分に残す。
 工場まで足を運ぶのもそんな気持ちの表れだろう。職人と良好なコミュニケーションが図れれば、それは間違いなくプラスに作用する。
 いわゆる現場主義で惹かれていったのがイタリアだ。
「いろんな国の工場を見てきましたが、手仕事が残っているのはイタリアくらいなもの。彼らは本当に惜しみなく手を使う。そこではオートメーション化されたラインでは到底不可能な、気遣いが随所に発揮されます。裁断しかり、釣り込みしかり。一つひとつの積み重ねが履き心地、顔つきにつながってくるんです」
 こうして自他ともに認めるイタリア靴の名店となった。
 数年前の試みは、だから思いもよらない一手だった。千葉にあるビナセーコーのオリジナル「ペルフェット」を導入したのだ。ビスポークの仕様テンコ盛りのその靴は今ではメンズファッション誌の常連になった。「ミヤギコウギョウ」はその第二弾というわけである。
「才能ある若手が活躍し始めた日本を無視するわけにはいきませんでした」
 つまり日高がこよなく愛するイタリア靴産業の片鱗を、日本に見出したのである。
 今秋にはこの連載でも登場したユニオン・ロイヤルの展開も決まっている。

次なる種まきが「ウォームクラフツ」。世界で2社しか存在しないといわれる馬革のタナリー、新喜皮革とコラボレートしたインショップだ。鞄や小物など同社のオリジナルを提案すると同時に、海外ファクトリーにその革を持ち込み、製品化してもらう試みも行われている。ゆくゆくは職人を常駐させたワークショップにしていきたいという。

改めて聞いて驚いたのだけど、ワールド フットウェア ギャラリーの卒業生には主役級の業界人がそれこそ片手では足りないくらい、ずらりと挙がる。創業1979年。いち早く輸入靴に目をつけたその店は靴に携わる人間にとって、まさに登竜門的存在だったようだ。

ひだか・りょうすけ 1970年埼玉・春日部市出身。慶応大学商学部卒業後、英製薬会社グラクソ・スミスクラインの日本法人に入社。26歳のときにワールド フットウェア ギャラリーへ転職。3年で銀座店店長に就任、その1年後にはバイヤーを兼務。現在は全体を総括するマーチャンダイザー兼バイヤー。靴の歴史については、右に並ぶ者はそうはいない。

あえてバージンを選んだ
生粋のイギリス好き

 ずっと年上だと思っていた。殴られそうだけど何なら一回りくらい(笑)。それは落ち着き払った物腰に加えて、かつてトレードマークだったオールバックに極太のスラックスを合わせる、1930年代の英国紳士を彷彿とさせる着こなしもあっただろう。足元は白かコンビのシューズがお決まりだった。
「タワレコではなく、あえてバージンを選ぶ」ほどのイギリス好きが高じてこの世界に入った。高校でモッズへ傾倒、コイーバやドレイパーズベンチに足繁く通った。が、社会人のはじめの一歩は外資系(そこはもちろんイギリスの会社・笑)の営業マンだった。
「苦労して独立した父に営業はやって損はないと言われていました。母からはテレビの特派員を見るたび、なぜかこういう仕事をして欲しいと(笑)」
 成績は悪くなかったが、車の運転、酒席、ゴルフというその業界特有のスキルがあまり得意でなかった。一方でファッションへの熱は冷めやらず、給料のほとんどは洋服や靴に消えていた。
 で、26歳。本当に好きなことをやろうと思い立って転職を果たすのである。あの当時の転職、しかも異業種へのそれはレアなケース。ためらった記憶はないそうだが、反対すると思ったから、親には辞めてから報告した(笑)とか。
 それから10年余り。名うてのバイヤーとなった日高は改めて今、接客に魅了されている。
「先日、お客さまから手紙をいただきました。その文面は10足以上の試し履きをさせてもらったが、労をいとわない献身的な対応は無論、何より買わざるを得ない雰囲気が微塵もなかったという、担当したスタッフをねぎらうものでした」
 僕はバトラーの半生を描いたカズオ・イシグロの「日の名残り」を思い出した。その小説を読んで、仕える立場の矜持みたいなものを知った。
「エンドユーザーとのガチンコ勝負は極めてシンプルで潔い、そしてクリエイティブな仕事と思っています」

企画・取材・文:竹川 圭 写真:是枝 右恭